大学3年生の夏、私は手術台の上にいた。
中学2年生のときから付き合ってきた左反復性膝蓋骨脱臼。バスケットボールを続けるなかで少しずつ悪化し、ついに手術に踏み切ることになった。不安がなかったといえば嘘になる。でも、手術そのものよりも、「このあとバスケに戻れるのだろうか、来年の教育実習(保健体育)に間に合うのだろうか」という気持ちの方が大きかったと思う。
そのリハビリを担当してくださったのが、理学療法士の園部俊晴先生だった。
「なぜ膝蓋骨が脱臼したのか」を教えてもらった日
園部先生は、私の膝だけを見なかった。
全身の柔軟性、足のアーチ、脚の骨格的な特徴——そういったものをひとつひとつ確認しながら、「あなたの膝がこうなった理由」を丁寧に説明してくれた。そして、術後の一般的なリハビリに加えて、足底板(インソール)を作成してくださった。
当時の私にはその意味が十分にはわからなかった。でも、自分の身体のことを「全体として」見てもらえた、という感覚はあった。
理学療法士という職業を、私はそのとき初めて認識した。
支える側に回ったとき
スポーツができる膝の状態には戻ったものの、術後は学生トレーナーとして仲間を支える立場に自然と移っていった。
チームには強豪高校からの後輩たちが入ってきていた。自分たちの代の実力では到底たどり着けなかった場所に、チームは少しずつ近づいていった。そして——創部初のインカレ出場、皇后杯出場。
コートの外から見ていた。言葉にならない何かが、胸の中にあった。
「誰かの頑張りを支えること」が、こんなにも自分の喜びになるのだと、そのとき初めてはっきりと気づいた。
就職氷河期という壁
大学では中・高保健体育の教員免許取得を目指していた。でも時代は厳しかった。教員採用試験の倍率は15倍近く。1978年生まれ、就職氷河期世代のど真ん中だ。
教員の道を諦めた、というよりは——「支える側に回りたい」という気持ちが、自分の中ですでに別の形を求めていたように思う。
浪人を経て、2002年、理学療法士を養成する大学に編入した。
あのリハビリが、今の私の出発点
今思えば、園部先生のアプローチは「入谷式足底板」という、当時の理学療法士界でも先駆的な考え方に基づくものだった。膝の問題を足元から変えていくという発想は、その後の私の臨床観に静かに影響し続けている。
患者として経験した「全体を見てもらえた感覚」は、自分がPTになってからも、ずっと忘れないようにしてきたことのひとつだ。
理学療法士になって20年以上が経った。
整形外科クリニック、大学院、スポーツトレーナー、地域ケア、自費訪問リハビリ——働き方も場所も変わってきたけれど、出発点はあの手術台の上にある。
膝の痛みがなければ、今の私はいなかった。
このブログでは、理学療法士としての臨床・キャリア・働き方について書いていきます。同じ道を歩む方の、何かのヒントになれば嬉しいです。


